育児の歴史
育児
子どもの世話、養育をすること
「子ども」はとくに乳幼児をさすことが多いものの、出生前の胎児や小学生・中学生などに広くとらえられることもある
育児は「子育て」と同じような意味で用いられている
近世に用いられた「子育て」が近代化の過程で「育児」にかわる
1970年代なかば以降に「子育て」にかわる
他方の「育児」は「育児不安」や「育児ストレス」など否定的な色合いを帯びて使われるようになってきている
育児は主として家庭において、親など保護者の手によって行われるが、その実現が不可能な場合には、里親や乳児院、児童養護施設、保育所などの児童福祉施設等において、専門家によって行われる
育児の目的は、心身ともに健康な子どもを育てることにある
育児の歴史
育児の方法や、子どもに対する親、地域、社会の人々の意識は時代によって変化してきた
子どもが小さな家族のなかで、両親とくに母親の丁寧な養育のもとに育てられるという現代の子育てのイメージは普遍的なものではない
歴史的には大きな「家」という経営体のなかで、非労働力である祖父母や、奉公人など他者に育てさせることも多かった
江戸期の育児
江戸期の親子関係の特徴としては、しつけの対象としての「子どもの発見」があげられる
江戸期は多くの育児書が書かれた時代であり、「父親が子どもを育てた時代」であった
明治期の育児
明治期になると、急速な近代化・産業化の推進という国家戦略、家制度の再編、そして学制の登場により子育てをめぐる状況は大きく変容した
特徴を要約
第一
子どもの主たる担い手が父親から母親に移行
第二
公教育制度の登場と普及に伴い、家や共同体の教育機能が後方に退いた
大正期の育児
近代家族の特徴は、大正期における新中間層の家族においてみられるようになった
産業化と都市化が進展するなかで、大正期になると新中間層が本格的に登場した
新中間層とは、資本家でも労働者階級でもない中間の階級的位置を占める階層であり、頭脳労働、俸給という所得形態、生活水準の中位性を特徴とする
高度経済成長期の育児
第二次世界大戦後の急速な復興と経済発展を可能にしたのは、技術革新による産業構造の変化と、いわゆる「日本的経営」の形成である。戦後大企業体制下の産業化は、生産労働を担う夫と、その労働力を再生産し、家庭責任を一身に担う妻という性別役割分業家族を基盤とするものであった
1970年代
子どもの養育責任は母親の手にまかされ、父親たちはケア役割を担えない・担わないという「父親不在」の育児状況が加速していく
専業主婦の孤立した育児と稼ぎ手男性の長時間労働は、メダルの表裏の関係にある
1980年代
核家族化のなかで共働き家庭が増え、母親が家庭にいることを最良とする従来の近代家族モデルは少しずつ変容し始めた
1990年代以降の育児
1985年(昭和60)
「女性差別撤廃条約」の批准を契機
1986年
「男女雇用機会均等法」施行
1991年(平成3)
「育児休業法」制定(1992年に施行)
1980年代後半から1990年代には「男女共同参画社会」への潮流が生まれた
母親同士や父親もともに子育てにかかわる共同育児への関心が高まりつつあった
1990年代
出生率の低下が進行
1997年
人口動態統計史上初めて、年少人口(0~14歳未満)が高齢者人口(65歳以上)を下回るなど、少子化問題が日本の将来を左右する「社会問題」としてクローズアップされた
政策課題としても「父親の育児参加」に注目が集まるようになった
少子化による「少なく大事に育てる」という方針は、質の高い育児を求めるようになり、母親は早期教育に熱心になる一方でストレスを感じて育児不安や育児ノイローゼを生み出すようにもなる
男性による育児
2000年代
「育メン」ということばは「イケメン」をもじったことばであり、育児を積極的に楽しむ「イケてる」男性という意味がある
メディアにおいては、子どもをもつ男性を対象とした雑誌が次々に発刊されたり、「育メン」を題材にしたドラマやコマーシャルが作成されたり、産業界では男性が使いやすい形状や柄を取り入れたベビーカー(乳母車)、ベビーキャリア(抱っこひも)、育児バッグなどの「育メン」グッズが流行
父親の育児に関する研究
父親の日常的な遊びや世話行為が3歳児の情緒的および社会的発達にポジティブな影響を与えていることや、妻が夫の育児参加を高く評価して夫と協働で育児をしているという実感を得られていることが母親の育児不安軽減につながっていることなど、子どもの発達だけでなく母親にもプラスの影響を与えていることがわかっている
父親の心身の苦痛や苦悩が父親の育児参加が頻繁であるほど低くなるなど、父親の育児参加は父親自身にも大きな影響を与えていることも明らかになっている
三日祝い
生まれたばかりの子供は、霊界ともいうべきところから人間界に取り上げられたばかりで、非常に不安定な状態にあるものと考えられていた
とくに生後7日間はその心配がもっとも大きく、七夜(しちや)が、まずこの世に生存するかどうかの一段階になっている
産の忌みがいちばん重いのも一七夜(ひとしちや)までであるが、そのなかでもミツメの三日産屋(うぶや)はとくにたいせつと考えられていた
それほど3日までは母子ともに危険な状態が多かったのである
三日祝いには産婆を正客として招いて、生児に湯を使わせ、初めてミツメギモノという袖(そで)のある産着を着せる
赤子にも膳(ぜん)を供えて産室で共食する。三日祝いは、生児を初めて人間界へ受け入れる最初の儀礼として、たいせつな関門と考えられていた
この人間界への加入を承認する儀礼は、1回だけでなく、成年になるまで何回となく経なければならなかった
とくに宮参りまでの生後1か月の、産屋に伴う出産の儀礼は細かく行われ、儀礼によってその成長を確かめてきた
七夜
七夜は全国的にたいせつな日と考えられて、三日祝いをしない所でも、七夜の祝いは盛大に行う所が多い
この日に名付け祝いをする風は全国的である
命名をするということは、子供が一人前の人間として社会に参加する資格を承認することでもある。名前は普通は親がつけるが、産婆、仲人(なこうど)親、子福者(こぶくしゃ)、有力者などが名付け者として命名する例も多い
名付け親は仮親として、生児とは一生親子の関係をもつ。生児が弱くて育たないときに、神職に名付け親になってもらうのを、申し子とかトリゴとかいう
初誕生
満1年というのは立ち歩きができるという、人間としての飛躍的な成長のときなので、ムカイドキなどといって、餅を搗(つ)き親類知己を招いて祝う
満1年まで無事に育てば、ひとまず成長の見通しもたつので、初誕生は全国的に祝われている
誕生前に歩き出す子には、一升餅を背負わせてわざと倒す習俗が各地にある
生後1年間は、特別の心遣いのもとに儀礼を重ねて、その成長を確かめてきた。子供の成長に伴う儀礼は、それ自身教育的機能をもっているが、同時に一つの育児法でもあった
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